◆Sm009 上月(百)家文書  上月家は七条新地山王町に住し、代々大坂屋吉兵衛を号し蝋燭や油などの燃料を商ってきた家で、幕末からは履物の取扱いも始めている。上月家の所蔵する文書は、当家の商売関係を中心とするものと山王町および周辺地域全体に関わる文書群に大別される。量的には後者が圧倒的に多く、数少ない七条新地関係の史料として貴重なものといえる。以下、その概要について説明する。 山王町を中心とする町関係文書では、まず雑色松尾左兵衛や地方役中村右膳からの触の留帳9冊(文久2〜慶応4)や京都府布令書などの法令類が約40点。土地・年貢関係では、幕末に写し取られた「山王町町分家屋鋪沽券之写」(明和4〜嘉永2)があり、巻末に町中惣高や夫代銀惣高を記している。戸籍類では山王町の宗門人別改帳(天保14・慶応3)のほか、上二之宮町の宗門人別帳(文久2)や同町宛の送受籍なども伝えられる。また、証文や願書の主なものは『史料 京都の歴史 12 下京区』(菊浜学区)に載せるが、幕末から明治初年の七条新地の様子がうかがえる好史料が多い。その他、山王町・八王子町・十禅師町・上三之宮町・上二之宮町が組町を形成し、自身番を勤めたことを示す「組町割合控」(弘化4)も興味深い。 次に、上月家自体に関するものは、天保の御改革留2冊と蝋燭や油の買付値段書(天保14年6月21日)、荒物屋仲間定書(嘉永6年12月・安政6年12月)や下駄類ぞうり履物屋仲間定(明治元)といった商売関係のほか、大坂屋吉兵衛宛の借屋証文や妙法院屋地子米皆済状(天保〜明治)なども遺されている。その他、特殊なものとして「九陌火災委録」(宝永大火の記録)、「上下古京之由来」(寛政元年3月写)、「御町奉行組役録」(慶応3年7月)も伝えられている。 ◆Sm012 西村(彦)家文書  西村家は屋号を象牙屋と称して、享保年間より唐物・漆器業を営んできた家で、代々彦兵衛を名乗り、現在もなお、「象彦」の名で知られる京都の老舗の一つである。当家文書は、(1)江戸期を通じて居住していた寺町通綾小路下る中之町に関する文書と、(2)商家西村家に関わる史料の2種類に大別できる。(1)の中之町関係の文書は、文化11年に当主彦兵衛により巻子3巻にまとめられたものと、町記録・証文類が遺されている。上記3巻の内、第1巻は元和5年から寛永14年までの町の大福帳の一部や諸記録の中より重要と思われるものを集めたもので、元和5年の町金出入の記録から始まっており、またこれが、当家の文書中一番古いものである。この中には寛永13年の中之町の町式目も含まれる。第2巻は寛永17年より貞享5年までの記録で第1巻目の続きをなしているが、この中には慶安1年の借屋請状や万払帳と題された町記録の一部が収められている。第3巻は元和8年から寛文5年までの触状の写が載せられており、この中には、元和8年の板倉重宗の市中諸法度のほか江戸初期の法令として注目すべきものが多く含まれている。 町の記録類としては、町中に居住する際の諸入用が詳細に記されている中之町の借屋銀覚書が寛永14年から万治2年までの分と、承応4年から寛文7年の分の2冊と慶安元年8月付の中之町宛借屋請状と寺請状(18名分)、寛永14年から寛文6年の間の金銀の出入を記した大福帳がある。これらは表題と裏書の題が相違していたり、途中より反対にとじられたりしているというように、中味に多少の混乱が見られることから、前記の3巻に仕立てられた以外のものが後日再度整理されたものと推察される。先述の町式目や江戸初期からの借屋銀覚書、大福帳を合わせ見た場合、中之町の町としての発展が江戸時代の比較的早い時期になされたことや、また、町運営においても早い時期から整備されていたことをうかがわせているし、江戸初期における町内の借屋状況なども相当具体的にわかる。下京区関係の町文書では、足袋屋町文書と同様に、江戸初期の町を知る上での重要な史料ばかりである。その他、中之町関係としては年紀の明確なもので安永3年から明治5年までの証文が61通あり、その内容は借屋請状、奉公人請状、金子借用証文と種々雑多である。 (2)の西村家に関わるものは、それぞれ近世の商家の性格をよくあらわしていて興味深いが、三代目彦兵衛により記された西村家の家訓(寛政4)年は商家の在様、維持していく上での注意事項が細かく書かれているし、また、西村家の一年の行事を正月から順に記した「歳中行事記」は当時の町家の生活をうかがわす好史料である。また、「蔵道具入所控帳」は多種多様な道具、調度の集積のあとを物語っているし、道具管理の仕方も示されている。さらに家業に関わっては天保10年の道具屋仲間の約定書もあり、その他、店卸勘定控、金銀取引帳などが多数見られる。 ◆Sm017 杉本(郁)家文書  杉本家は江戸時代以来、奈良屋を屋号とし、烏丸四条・綾小路新町に店舗を構える呉服商であったが、他所への進出も積極的で、とくに江戸時代には現千葉県の佐倉に出店を構えた。当家の文書は、こうした杉本家の商活動を反映して、江戸時代中期の佐倉店仕切帳などが遺されている。また「相続記」は杉本家の先祖の一代記であり、また文化10年に3代新左衛門秀明によって定められた「家訓」は、江戸時代京商人の意識を知る上での史料となろう。なお、昭和37年発行の『奈良屋弐百廿年』には、当編さん所(当館)収集以外の文書も掲載されている。 ◆Sm021 伊藤(俊)家文書  江戸時代から芦刈山町に居住し、鱗形屋と号した伊藤家には、伊藤家および芦刈山町に関わるものと、祇園社に関するものとの二系統の文書が遺される。前者については、江戸時代後半から幕末にかけての金銭貸借関係文書がその大半を占めるが、この他に芦刈山町の「町中沽券状写」(元禄〜文政)と、やはり江戸時代後期の芦刈山町の「式目定」「祇園会神事式目」などがみられるが、伊藤家はこの時、五人組頭として登場している。また、「都草」と題する京都旧記録の類3冊や天明大火の記録なども伝えられる。後者の祇園社に関するものは23点を数えるが、その大半は慶長5年以前のものである。もっとも古いもので延文3年6月7日付の姉小路烏丸の土地についての譲状だが、内容的には統一がなく、祇園社領についてのもの、大工職についてのもの、西塔閉籠衆申状など、各種がある。 注)祇園社に関係する文書については、野地秀俊「新出『祇園社関係史料』の紹介と翻刻」(『京都市歴史資料館紀要』20号)を参照されたい。 ◆Sm024 金光寺文書  市中山金光寺(市屋道場)宛の天正19年9月13日付豊臣秀吉朱印状1通は、寺領地子替地について記した替地の宛行状である。もう1点は、同寺領水帳(天正19)と年貢納帳(天和元)の合冊綴込帳である。 ◆Sm025 村上(丈)家文書  村上家文書の中心となるのは、表処置録1〜10(ただし第9冊欠)9冊で、文政11年に西本願寺寺内町奉行に任命された山中清記の手になるものである。第1冊は、町奉行の任命一件記録。第2冊以降は、役職上知っておくべき事、たとえば町奉行所の職務、寺内町の町組や商工業仲間の編成など、雑多な項目を書きとめたもので、おのずから西本願寺寺内町に関する百科事典の性格を有している。このほか同家文書のうち山中清記の記したものに御境内律令と、記録と題する冊子各一冊がある。前者は寺内町住人に適用された法令の集成。このほか、延享3年の寺内町の行事を日を追って詳述した寺内歳時記、寺法品節(天地2冊)、本末正義篇、改革に付達書、本圀寺に付諸事留、評定所掟、御家中列名、御供頭定がある。以上のうちとくに表処置録、御境内律令、寺内歳時記の3者は、西本願寺寺内町研究に欠くことのできない史料として注目されている。 ◆Sm026 中川保三郎日記  中川家は、丹波屋と号し郭巨山町で紋屋を営んだ家である。中川保三郎氏は明治30年代に成徳小学校の学務委員を務め、小学校や学区の運営に助力した人物であり、同氏が遺した13冊の詳細な日記を「中川保三郎日記」と総称する。個々の表題は、「日記控帳」「日用記并金銭出入控帳」などさまざまである。年代は明治30年7月から同37年3月までで欠年はない。日付の下にその日の天気と食事の献立を記し、諸入費の記載なども詳しい。同氏の役柄からして郭巨山町や成徳学区を中心とする周辺地域の様子を物語る記述も多くみられ、「平岡峰太郎絵日記」(Km066)と比類する近代の貴重な庶民生活史料として注目される。 ◆Sm027 西蓮寺文書  松尾山西蓮寺は、金光寺(市屋道場)の末寺である。元禄5年の由緒書によると、開基は空也上人であるという。全23点中、中世文書は永正7年の沼田光延地子銭寄進状と天文9年の山本秀家寺領寄進状の2通である。残りの文書は、先述の由緒書をはじめ、宗旨請状や送状等の宗旨に関するものや、朱印地貸付等の証文類が数点ある。ほか大半は、本末関係や寺領に関する松尾社旅所との諸争議の史料である。 ◆Sm029 輪違屋文書  輪違屋は西新屋敷中之町にある老舗の置屋で、その由緒は古い。幕末期には新選組組長近藤勇が登楼して揮毫を遺すなど、維新期の関わりも深い。文書の多くは、幕末維新期のものであるが、なかでも抱遊女に関する史料は注目をひく。支配下にあった祇園新地関係の遊女・芸者の交名が明らかになっている。また明治初年では西新屋敷の町別宅地割の詳細が遺されており、島原研究には欠かせない史料を提供している。なお、輪違屋には、伝来は不明であるが、鎌倉期から室町期にいたる質券・売券・書状・奉書など7点が蔵される。 ◆Sm030 久板(弥)家文書  久板家は、永松学区難波町で薪炭商を営んだ家である。文書のうち、町儀難波録と題する冊子は、難波町をふくむ高瀬川沿い9か町が開発された寛文10年から文政6年までの町記録であり、寛保2年に、それまでの文書等を集成、以後も書きつがれたものである。とくに、高瀬川新地の開発・進展に関する好史料として見のがせない。このほか、5点は三郷仲ヶ間控(寛政12〜同13)など家業関係史料である。 ◆Sm031 中村(亮)家文書  中村家は、もと西七条村の郷士で、中村太四郎家と先祖を一にしている。文書は、当家の家柄を語る由緒届書写留帳(元禄5以降)と由緒届書写断簡、他に中村梅次郎西国順礼道中記(慶応4)がある。 ◆Sm032 中村(太)家文書  中村家は代々西七条村に居住した郷士で、同家の由緒に関しては、由緒書2点、家訓(宝暦7)、由緒・系譜・記録等を集成した中村家古文書と題する冊子がある。これ以外の文書は、年代は安永6年から明治5年にわたり、証文類、願書類、年貢納入関係、その他、の4グループに大別できる。まず、証文類は、安永6年の中村一学田地作職売券をはじめとして、奉公人請状、金子借用証文など12点。願書類は、年寄退役願、中村家普請願書、年貢減免願の3点。退役願は岡本玄冶領年寄から中村兵左衛門宛、減免願は同じく岡本玄冶領百姓から岡本玄冶宛となっている。これは、中村家が一時領主岡本玄冶の家臣となり、知行所の支配人をつとめていたことをあらわすものである。つぎに年貢納入関係は、年貢請取通、年貢納帳など30点、主に岡本玄冶領のものである。その他の文書は、中村家の金銭出納帳、西国旅行日記、松尾社旅所神輿再興入用勘定帳など10点となっている。 ◆Sm034 田中(吉)家文書  田中家は、代々、近江屋吉兵衛を名のり、江戸時代には京大工組の一つ田辺組に属していた。田中家文書のうちもっとも古い年紀は明暦2年ではあるが、のちにふれるように田中家文書中には町文書が多く含まれているため、この最古の文書は町文書として田中家に引き継がれた可能性もあり、これをもって田中家がこの頃から大黒町に居を構えていたと即断することはできない。しかし元禄頃にはすでにこの地に居住していた形跡があり、江戸時代中頃には大黒町の有力者としての地位を確立していた。 田中家文書は、大別して田中家自体に関するものと、大黒町に関するものとの二つに分けることができる。その内、田中家個人に関するものは、家屋敷売買・金銭貸借関係、奉公人請状等の証文類と普請・大工および大工組関係文書が大部分を占めている。なかでも、普請・大工関係文書は、質量ともに田中家文書の核となるべきものであり、京都の建築史、大工組研究には欠くことのできないものとしての位置を占めている。京大工二十組の仲間定をはじめ、大工間の争論関係文書、さらに神社・仏閣の普請絵図、普請願書なども多い。なかでも本圀寺に関するものは179点にも及び、諸堂舎の配置図、建築の算用状、普請帳、絵図のほか、諸塔頭のものまでが含まれている。本圀寺以外では東西両本願寺・延寿寺等が注意をひかれる。また神社関係では、元禄から享保・延享・宝暦にかけての綾小路神明社の普請願書がまとまりをみせる。絵図といえば、町家の絵図(平面図)が多いのも、当文書の特色である。喜田川守貞はその著『守貞漫稿』の中で、京都・大坂の町家を巨戸・中戸・小戸の三分類としたが(これは規模と形態とを勘案して分類)、田中家文書に含まれる町家絵図は、これらの内、中戸・小戸に属するものが多い。123点に及ぶ町家絵図のうち、享保13年の絵図がもっとも古く、以後、幕末に至るまで遺されているから、これからの京都における町家研究に貴重な材料を提供してくれることになるだろう。あるいはこれらと並行して、大福工数帳の類が安永から明治まで遺されており、これらも江戸時代における大工の実際を分析するうえで、有意義なものと思われる。この他、材木勘定覚・瓦勘定覚・左官勘定覚等、諸種の勘定覚も多く遺されているが、年紀不明のものが多い。 次いで大黒町に関する文書の中でまず注目されるのは、延宝5年の木戸門についての町役を定めたものである。これに類似するものとして元禄3年に大黒町近辺の坂東屋町・醍醐町・錺屋町等が大黒町に提出をした五条室町の四ツ辻についての申し合わせがあるが、これらの文書は責任所在の不明確な四ツ辻の、具体的処理法がうかがわれて興味深い。また大黒町における町式目は、明和7年10月2日の「大黒町町式改条々」がもっとも古く、婚姻・養子・家督等々、20か条から成っているが、大黒町独自のとり決めは見られない。さらに宗門人別改帳は宝暦から元治まで遺されており、町の動向を知るうえで示唆を与えてくれる。こうした大黒町の具体的動向と合わせて、当町の景観的様相を伝えてくれるものに、延宝2年の「大黒町軒数并間尺改帳」や元文元年の「大黒町水帳」が伝えられている。 ◆Sm035 土山(年)家文書  土山家は醒ヶ井通五条上る小泉町に住し、和泉屋と号した。文書は町および醒泉小学校の増築といった地域に関するものと、土山家の家系図類に大別できる。まず、町関係では「町内改式目帳」があり、これは元禄14年の式目、明和5年の町儀定を書き写したものである。町中宛の証文28点はすべて家屋敷の売買・相続の関係で、天明8年12月の家屋敷買得請状が最も古く、また当家和泉屋の相続証文が約半数を占める。小学校の関係は増築費寄付褒状(大正14年10月15日)と醒泉校拡築事業報告書(昭和11年9月8日)の2点である。次に土山家の関係は、「江戸表にて一向宗言上書」(初代土山正煕筆、年未詳)のほか家系図2点である。 ◆Sm036 水谷家文書  水谷家は江戸期には河内屋と号し、油屋を営んでいた家である。文書は95点中の76点が、金子借用証文、家屋敷売渡証文、奉公人請状といった証文類である。その中でも当家文書を特徴づけているのは、安政4年の近江屋治助油仲買業譲渡の際の樽代受取証文や、慶応2年の伊勢屋長三郎油仲買業譲受証文、明治の油会所仲買鑑札などをはじめとする油屋関係の文書の存在である。金子借用証文中にも油屋関係のものが多数ある。この他、水谷家が明治期に小学校建設資金に寄付した際の京都府よりの褒状や水谷家宛の書状も遺されている。 ◆Sm037 藪内(紹)家文書  藪内家は近世初頭、仲剣紹智を流祖とする茶道藪内流の家元で、二世翁真紹智が本願寺良如上人に招かれて西本願寺近辺の現在地に移り、歴代西本願寺と関わりをもった。燕庵茶会席記録6点、自然に礼法の備わった茶道を教える「茶道改正問目録口義」2点、真行台子や目録相伝者、門人姓名を記す門人姓名記録1点、千利休の書状2点、春屋宗園筆の掛軸1点、古歌書1点が伝えられる。書状は利休が武門に仕えない藪内家をうらやんだ「うらやましの文」と、利休が細川幽斎にあてた「末期の文」とみなされる書状である。 ◆Sm038 小矢野(房)家文書  代々東寺の大工職を襲職してきた小矢野家には、この大工職に関する文書が遺されている。明治初頭に作成されたと推測される当家所蔵の文書目録には、110点余が記載されているが、その多くが現在に伝わらない。年紀のもっとも古いものは、弘長元年9月12日付の紀宗弘宛「東寺鍛冶職補任状案」で、以下、東寺惣大工職に関する長享元年の「後土御門天皇綸旨写」、古矢野宗次宛慶長11年9月20日「東寺惣大工職補任状」等があり、他に承安3年より安政4年までの惣大工職を列記した「東寺惣大工職補任代々記」が遺されている。絵図類では、七条学区内に相当する地域の「諸公卿所領平面図」(年未詳)、また、天文道を掌った土御門家の明治3年の「土御門家総絵図」があり、それには、御前通梅小路の天文台の位置が詳しく描かれている。 ◆Sm039 崇仁小学校所蔵文書  文久2年諸吟味伺書写1点。大坂町奉行川村壱岐守掛の犯罪吟味帳の目録で、番帳に書かれた吟味内容と大坂城代への裁決伺の写である。その中には、えた身分の者が平人方へ雇われたことが犯罪とされた一件があり、差別の冷酷さがうかがえる。 注)崇仁小学校は、平成22(2010)年3月に閉校。 ◆Sm040 原田康之助氏所蔵文書  原田氏所蔵の文書は「中九町組小寄会順番帳」「中九町組寄合順番留」と名付けられた冊子本2点である。もとは下古京中九町組に伝来したものと思われる。「中九町組小寄会順番帳」は天保7年から明治2年までの、下古京中九町組の寄会の際の記録を当番町が記したものであり、また、「中九町組寄合順番留」は享保9年から慶応4年間の中九町組の3月7日、8月7日の組寄合の当番町を記したものである。 ◆Sm042 北村(伝)家文書  北村家は高瀬川筋の木屋町通松原上る美濃屋町に江戸時代初期より居住し、屋号は房屋と称した。当初は両替商・油商を営んだが、天明頃からは建築業に転じた家である。 当家の文書は、美濃屋町を中心とする高瀬川筋(とくに二条〜五条間)の地域に関するものと、家業である大工職関係の2種類に大別される。まず、美濃屋町関係では、貞享4年の「家屋敷御年貢御書付」(奉行宛)をはじめ、式目帳(享保18)、沽券帳(明和4)、町用日記的な「万覚帳」(天明4)や町絵図2点(享保8・天明7)などがある。 また、高瀬川筋全般に関するものでは、この文書群で最も古い延宝7年6月の「四条川原検地帳」のほか、四条川原西組の人別改帳の類が5冊(宝暦〜享和)、薪炭商三郷仲間の一つである松原郷薪屋仲間の角倉川方役所宛願書3点(天保9〜同11)が伝えられる。次に、大工職の関係では、房屋伝兵衛ほかからの普請願書が宝暦2年から明治4年まで6点、明治初年の「洛中洛外大工人数書」および京都府が令した大工会社規則(明治3年8月)などが遺されている。なお、『史朋』14号(昭和53年)に当家文書の一部が紹介されている。 ◆Sm045 朝妻町文書  朝妻町は間之町通五条上るの町である。文書は表紙に永代帳と記された冊子で、天明4年から文化12年まで約30年間にわたり、京都町奉行所からの触書や町からの請書・上申書などを写したもので、巻頭には天明大火後の救米関係記事を載せる。また、町組単位の諸負担割付の記録もあり、町組の記録としても注目される。 ◆Sm047 俊成神社文書  俊成町に所蔵される文書には、まず宝暦8年の由緒書があり、それには当町が因幡堂前町より俊成町と町名変更されたいきさつが記されている。他には神社に奉納された歌集や俊成卿年忌についての書付等がある。 ◆Sm048 井田(秀)家文書  井田家は越後屋と号し、代々糸組物商を営んだ家である。当家の文書も、嘉永7年の仲間再興にあたり新たに定められた糸組物仲間の定書、同年の越後屋兵左衛門所持の仲間株等に対する糸組屋仲間年番の添手形など糸組物仲間関係の好史料が存する。 ◆Sm049 修徳小学校所蔵文書  修徳小学校には、明治初年から大年寄ほかの役職を歴任した北条太兵衛(太平)関係の文書が3巻の巻子に仕立てられ保管されている。年代は明治2年から同11年まで、北条太兵衛宛の京都府からの免状や褒状など17通を収める。内容は、小学校の建営・窮民救済関係が多いが、大年寄助役や京都第2商会用掛を命じられた時の辞令(明治2年6月・同3年11月13日)なども含まれている。その他、当校の沿革史や明治初年の卒業証書が保管されている。 注)修徳小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm050 豊園小学校所蔵文書  学校沿革誌.校規・同窓会誌各1点。下京10番組町別絵図3点、京都所司代触状3点、木箱写真2点を所蔵。沿革誌・校規は大正5年に印刷されたもので、校規には校務処理規程や本校教育の方針が記され、各教科の授業方針まで掲載している。同窓会誌「豊の園」は明治25年から同26年までの5・7・8・9号が保存されている。絵図2点は明治2年と同4年のもので各町の軒役数、沽券状数、人夫数、物入、髪結床、地蔵堂、番部屋、雪踏店、木戸の位置と数まで明らかになる。触状は板倉重宗が下京年寄に宛てた京都の民政に関する21か条いわゆる京都市中諸法度の正文で、もとは松之上拾六町組が所持していたが、明治38年5月1日に吉文字町の藤原武兵衛氏から当校へ寄付された。 注)豊園小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm051 開智小学校所蔵文書  山階宮・閑院宮臨校梗概記(明治10)、天皇・皇后両陛下真影拝受記(明治24)、警防団員心得(昭和14)の3点のほか、昭和15年刊行の学校沿革史『開智』は、小学校篇、町誌篇などに章分けされており、区域誌をも兼ねるものである。 注)開智小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm052 七条第三小学校所蔵文書  七条第三小学校は、昭和12年七条小学校より分離し開校された。当校にはその創立事情や沿革を記した学校沿革史が保管されている。 ◆Sm053 七条小学校所蔵文書  七条小学校には校史と沿革史がそれぞれ2点ずつ保管される。前者は明治30年代の学校沿革や行事の様子を2冊に分けて記載している。後者は明治31年から同32年および昭和17年のものとがあり、ともに学区内の状況を詳述している。 ◆Sm054 光徳小学校所蔵文書  光徳小学校には、学校沿革史が保管されている。昭和15年に出された学校沿革の草稿、昭和16年の校名変更内申書および学区内の状況を記した調査表等を綴じている。 ◆Sm055 成徳中学校所蔵文書  成徳中学校では、成徳尋常小学校沿革略史、成徳中学校沿革史、教育綱領、創立五十年記念誌等を綴じこんだ冊子が保管される。 注)成徳中学校は、平成19(2007)年3月に閉校。 ◆Sm056 大内小学校所蔵文書  大内小学校には、大内村郷土誌と学校沿革史が保管されている。大内村郷土誌は、明治44年頃の当村の地理的歴史的状況が詳しく記述され、当時の管内の様子が明らかである。また、学校沿革史は明治5年創立以降の本校の略史を記している。 注)大内小学校は、平成8(1996)年3月に閉校。 ◆Sm057 有隣小学校所蔵文書  学校沿革史、小学校建営有志家名録、長香寺軒役免除証文、人民教育勉励沙汰状、皇大神宮尊号揮毫授与状が遺されている。沿革史は明治2年から同30年の略史である。学校建営に対する学区民の協力や、区内の皇大神宮信仰の状況の一端がうかがえる。 注)有隣小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm058 格致小学校所蔵文書  格致小学校には沿革史2点があり、1点は大正8年出版の『格致沿革史』、もう1点は昭和21年以降の校史を記した「格致小学校沿革史」である。 注)格致小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm059 稚松小学校所蔵文書  稚松小学校には、学校沿革誌が保管されている。昭和8年4月に当校の沿革をまとめ、以後書き加えられたものである。 注)稚松小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm061 高橋一男氏所蔵 若山家文書  若山家は東塩小路村の名望家で、村役を歴任した家である。文書の内容は東塩小路村に直接関係するものが多く、東塩小路村文書と相互に補足しあう関係にある。 文書の保存形態のうえからみると、まず3双の屏風に貼りまぜになった文書81通がある。このうち最も注目すべきものは、永正15年9月21日付室町幕府奉行人連署奉書で、若山家が東塩小路村周辺の開発者であったことを示唆する史料である(『史料 京都の歴史 12 下京区』386〜429頁参照)。江戸開幕以前の文書は、天文17年から慶長3年にわたる12通、主に東塩小路村周辺の田地作職売券である。江戸期の文書は、京都所司代板倉重宗触状9通、寛永11年から明暦元年にいたる東塩小路村幕領分年貢割付状7通など、江戸初期のものが大部分である。 つぎに、巻子12巻に仕立てられた文書31通。うち11通は元和7年から寛文元年にいたる東塩小路村幕領分年貢割付状で、幕領分村高の推移を知るうえで上記の屏風に収められた分とあわせ、重要な史料である。このほか、京都所司代板倉重宗の触状、ならびに村中請書などが表装されている。なお、前記の屏風とこの巻子は、明治期の当主が散逸を防ぐために整備されたもので、本解説では便宜上、屏風は文書1通を1点、巻子は1巻を1点として総点数を掲出した。 上記2類をのぞく293点は、年代的には正徳元年から明治20年代にわたるが、主に嘉永年間以降に偏している。なかでも借屋請状・引取証文・宗旨請状の借屋関係証文が67点と多い。まとまったものには、お土居藪拝借に関する書類に年貢取集帳など18点、稲荷社神事・神輿造立に関する文書28点などがある。村勢の概要を知るには東塩小路村文書に一歩をゆずるが、お土居藪開発・稲荷社との関係等、個別の問題を知るうえでは欠くことができない。 ◆Sm062 菊浜小学校所蔵文書  菊浜小学校には、学校沿革史が保管されている。大正15年から整理して書き継がれたもので、明治2年の創立事情や以後戦前までの当校の沿革が明らかとなっている。 注)菊浜小学校は、平成4(1992)年3月に閉校。 ◆Sm063 醒泉小学校所蔵文書  醒泉小学校には、本校沿革史が保管されている。明治2年5月創立以来の本校の沿革大要を昭和5年にまとめ、以後書き加えられてきたものである。 ◆Sm064 永松小学校所蔵文書  学校沿革誌2点、永松学区町別絵図5点、町別修理取調帳15点、地券下渡願書7点、大溝筋開削関係書類8点、旧お土居御薗地取調関係書類5点、浜地借用麁略絵図2点、道幅麁略絵図2点、官地借用・返上書各1点、地租改正請書1点、私有地届書1点、凶作地救恤褒状1点、切手売下所設置願書1点、小学校保管資料目録1点。沿革誌は大正7年に古記録の中から探し出したものと、その後に編集しなおされた手書きのもので、後者には永松校建築史も綴られている。学区町別絵図は明治2・3年と12年までのもの計4点と12年以降が1点で、軒役・沽券状数、支配地関係がわかる。町別取調帳は明治2・3・5年の戸別建家の間取図で、家持・借地・借屋関係も記され、具体的な住いの様子を知ることができる。大溝筋開削関係は河原町通西裏から高瀬川へ落ちる溝筋が、下京第6区(立誠学区)裏寺町から流れてきて悪水が溜滯するので、明治11年に溝筋を修繕した関係書類である。御薗地取調関係は、京都市中が地子免除になったので(明治3)、御薗地は買得地で地子免除の対象地であることを主張した文書と、地租改正にあたっての坪数取調書で、旧お土居が御薗家領から細分されて民有地となる変遷を知ることができる。保管資料目録と現存文書を照合すると、絵図類で散逸したものが認められるが、町組の書類がよく保存されたといえる。 注)永松小学校は、昭和58(1983)年3月に閉校。 ◆Sm065 植柳小学校所蔵文書  植柳小学校では、沿革史を保管する。明治2年創立以降の本校の沿革を記述したものであるが、とくにその教育内容を詳しく知ることができる。 ◆Sm066 安寧小学校所蔵文書  安寧小学校では、本校沿革誌と学校沿革史および教育要覧を保管する。沿革誌は、創立から昭和37年の新校地(現在地)移転までの本校の沿革を詳述する。学校沿革史は新校地移転一件について記し、移転事業を詳しく知ることができる。 注)安寧小学校は、平成8(1996)年3月に閉校。 ◆Sm067 皆山中学校所蔵文書  大正7年11月発行の皆山尋常小学校沿革史と、昭和22年5月起の皆山中学校沿革史が遺されている。小学校沿革史は明治24年3月区長の示達で沿革史編さんに着し、創立50周年を記念して発行されたものである。中学校沿革史は年次ごとに概況を記録したものである。 注)皆山中学校は、平成19(2007)年3月に閉校。 ◆Sm068 尚徳中学校所蔵文書  明治31年10月脱稿の尚徳小学校沿革史、校規、学事達留書、尚徳教育会記録、教員履歴書、明治天皇・皇后真影下賜口述書、女紅出品物褒状、大正元年校舎建築に関する書類、下京16番組(尚徳学区)絵図面などを保管。沿革史には尚徳小学校創立当時の校舎の概要、教育内容、生徒・教員の状況、明治10年の天皇来校の様子などが詳述され、さらに教育会、女紅場、幼稚園の成立と沿革なども記載され、校舎の変遷を示す絵図もある。校規は3種類あり、年代の記載はないが内容により校規の推移がわかり貴重である。尚徳教育会記録では教育会が学校経費を補助した実体、建築書類では学校建築の実体、教員履歴書では当時の教員資格取得の実体を知ることができる。 注)尚徳中学校は、平成19(2007)年3月に閉校。 ◆Sm070 田中(常)家文書  田中家は明治期に田中常七氏が府会議員や村会議員を務めた家である。文書も、明治15年の田中常七府会議員当選証書や、明治20年の田中常七村会議員当選証書など、田中常七氏の選挙関係の文書が大半である。 ◆Sm074 佐々木壽夫氏所蔵文書  佐々木氏が所蔵する文書は、ほとんどが下京第29組(安寧学区)に関するもので、29組全図や各町絵図が5点、地価・地租上納表7点、とくに明治11年から同13年にかけて西九条村や八条村の一部が京都市へ編入される際に作成された証書類が注目される。また、小学校関係では安寧校全図面(年未詳)や小学校建設・貸地料をめぐる訴訟書類(明治7〜同19)が遺されている。 その他、伝来の事情は不明であるが下京第17区(醒泉学区)の絵図2点と同区内中金仏町の沽券割印願書4通(明和4〜天保6)がある。 ◆Sm075 楠本(健)家文書  楠本家は、江戸時代には西本願寺寺内町の西洞院通魚棚下るに居住し、山野屋と号する大工職の家であった。遺されている文書は諸寺造作についての、大工頭中井家への普請願書および中井家の許可書がほとんどである。それによれば、当家は町家の大工を勤めていたというよりは、広隆寺太子堂、広隆寺門前地蔵堂、等覚寺など、寺社関係の普請に関わった家と考えられる。この他、画学校建設費寄付に対する、京都府からの褒状(明治14)も遺されている。 ◆Sm078 梅逕中学校所蔵文書  梅逕中学校には、沿革史3冊が保管されている。昭和18年に廃校となった梅逕小学校の沿革史、梅逕商業青年学校の沿革誌および大内中学校の学校沿革史である。なお、大内中学校は、昭和22年に開校、翌年梅逕中学校と改称した。 注)梅逕中学校は、平成19(2007)年3月に閉校。 ◆Sm079 道知院文書  道知院は、本塩竈町に位置する浄土宗の寺院である。文書は主として、文化13・慶応2・明治20年の道知院普請に関するものである。その他としては、明治20年の当院閉鎖断書などがある。 ◆Sm081 正因寺文書  正因寺は、土手町通正面下る紺屋町に位置する浄土真宗大谷派の寺院である。所蔵文書としては、過去帳(元禄元〜宝暦13、明和2〜文化11、文政3〜大正6)が都合3冊存する。 ◆Sm085 菅大臣神社文書  菅大臣神社は、明治以前まで曼殊院門跡の兼帯所であったが、神仏分離令により明治6年村社として扱われるようになった。従って、明治以前の当社宛文書の宛名は全て曼殊院門跡である。文書は大別すると(1)神社関係と(2)町関係にわけられる。 (1)についてみてみると、まず天正12年の当社竹木番の請文をはじめ、慶長6年には神藪保護の約定書があり、ともに有力町衆の当社との深い関わり合いが想定される。また、元和2年には、京都所司代板倉重宗の菅大臣尼神宮屋敷地安堵状がみられる。土地関係のものとしては、文化2年に町奉行所宛の当社境内地間数差出書が、明治3年から同4年にかけては、京都府宛の同様の書付帳がある。参詣道などの土地買得においては、元禄6年から宝暦4年にわたって記された冊子本や、寛政2年の地屋敷売買書付があり、土地拝借に関しては、明治7年当社祠掌による願書がみられる。神社再建・改築・修復については、文政3年から明治16年にわたって散見される。訴訟史料としては、嘉永2年に当社と西隣の常喜院との間の通行道をめぐる紛争がある。また、神社昇格願は明治34年から同35年にかけて、絵図は正徳5年から明治19年にかけて、由緒や祭礼をはじめとして当社の諸記録や日記帳類においては、宝暦10年から明治41年にも及ぶ。以上、文書は極めて多彩な内容に富み、当社の具体的実像に迫ることができよう。 (2)町関係の史料としては、明和4年・天明3年の菅大臣町小畠七右衛門家屋敷売買証文や、年未詳ではあるが京都町組町名録が存する。他には、菅大臣町内の史料ではないが、安永3年壬生村錺屋忠兵衛家屋敷普請願、文化12年の同人地銅切手渡判取帳や諸事雑記録帳2冊がある。 ◆Sm089 梅垣(正)家文書  梅垣家は代々丹波屋を号として、蒟蒻屋を営む家である。遺されている文書は、嘉永7年の株仲間再興の時のものと思われる麩蒟蒻屋仲間定書といった家業に関わるものと、安政3年の丹波屋弥兵衛券状割印願書の写である。 ◆Sm090 佐々木一子氏所蔵文書  「御堂絵図」「御影堂土居牛引之図」「本願寺御影堂本堂図」などをはじめとして、東本願寺関係の建物の図面が大半であり、元来は、東本願寺出入りの大工職射水家に伝えられた文書と推察される。その他、幕末から明治期における堂塔の再建等の変遷の概略を記す「報恩実歴」(明治44、射水伊三郎著)がある。 ◆Sm091 塩見(和)家文書  塩見家は中堂寺村の旧家で、地域に遺る六斎念仏を伝え、現在もその保存の中心となっている。当家の文書のうち4点が融通・五蔵観世音・十三仏の念仏および大難消文で、他に年季奉公の証文と奉行宛の居宅普請許可願が遺されている。 ◆Sm092 浦西(久)家文書  浦西家に遺されている「佐女牛井記」と表装された2点の冊子は、名水佐女牛井に関するものである。1点はその由来等を写しまとめたもので、もう1点は同井水の制札下渡についての奉行所宛口上書5通(寛政元・同4)の写である。 ◆Sm093 勝明寺文書  勝明寺は、七条御所ノ内本町に位置する曹洞宗の寺院である。所蔵文書は、宝亀山勝明寺の江戸期に作られた縁起帳1冊で、同寺の由来が詳述されている。 ◆Sm094 龍岸寺文書  龍岸寺は、八条坊門町に位置する浄土宗の寺院である。延享4年6月付の第9世曼誉による龍岸寺境内の地屋敷・除地・年貢地の面積や由緒書、ならびに本山知恩院への差出書も合せて記した控帳が存する。なお、当寺門前の三哲通の通り名は当寺開山の三哲によっている。 ◆Sm096 市比売神社文書  下寺町の市比売神社には、別当寺である市中山金光寺の文書も含み、年未詳であるが同寺縁起や寄進状(寛政13)がみられる。市比売神社については、元治元年4月の祭礼用記が1冊あり、当社の祭儀の次第が詳述されている。 ◆Sm097 淳風小学校所蔵文書  淳風小学校には、学校沿革史と校規がある。校規は淳風尋常小学校時代のもので、当時の本校の実状が明らかである。区内の史料としては小学校北の堀之上町の明治35年の裏溝改修協議決定書および本圀寺境内図(明治)を保管する。 ◆Sm098 井上(博)家文書  井上家は鍋屋町で春耕軒と称し古くから目薬などの薬品を商った家で、江戸期には河内屋と号した。文書は安政2年5月の禁裏御所造営献納金下命書と明治維新時に当家が調達金を差出したことに対する民部省よりの賞金下賜達状の2点であるが、御免薬種仲間の鑑札(宝暦10・嘉永6)と京都府の売薬行商許可証(明治26)なども遺されている。 ◆Sm099 山田(稲)家文書  山田家は旧中堂寺村の旧家であり、当家文書3点は、明治21年の「村方会議所へ金子差出証」、明治38年の「会議所新築之控」、明治39年の会議所新築費用借用書と、すべて五条通櫛笥に設けられていた中堂寺村会議所関係の文書である。 ◆Sm101 本覚寺文書  本覚寺は、本塩竈町に位置する浄土宗の寺院である。文書としては、当寺縁起や由来記が、元禄3年から昭和16年にわたって散見される。中でも、昭和14年4月には、創立720年記念として、『本覚寺史』が出版されている。他に、まとまったものとしては、当寺領安堵朱印状写がある。天正13年の豊臣秀吉より、徳川家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家茂に至る。本覚寺宛諸物寄進状も、宝暦7年から文政11年にわたって存する。なお、1点だけ深草村宗門改帳(天保7)が遺されている。 ◆Sm102 上徳寺文書  上徳寺は、本塩竈町に位置する浄土宗の寺院である。宝暦9年の塩竈山上徳寺本尊縁起をはじめとして、過去帳2冊(文政5〜明治29、明治30〜昭和54)が存する。他に、雲光院殿肖像画や徳川秀忠肖像画がある。 ◆Sm104 井筒(与)家文書  井筒家はト味町(現ト味金仏町)で江戸中期より法衣商を営んできた家である。文書は、記憶と題する当家の記録(明治40〜大正2)と明治40年1月21日に井筒家へ養子に迎えられた西羽卯三郎(初代西羽与助三男)に関連して「西羽本家系譜」「初代与助履歴書」の写しが遺る。なお、当家に所蔵されるト味金仏町関係の文書は目録(『史料 京都の歴史 12 下京区』103〜107頁)に掲出した。 ◆Sm105 猪上(祝)家文書  猪上家は、西本願寺寺内町丸屋町に住し代々西本願寺の御花束(おけそく)調進を勤めた家である。当家に伝わる由緒書によれば、先祖は紀州雑賀の出で、もとは雑賀を名乗ったが、二代七郎右衛門正次が顕如上人より「猪かみ」(現在はイノウエ)の姓を与えられ、本願寺の京都移転(天正19)に随い西寺内に移り住んだと伝える。 猪上家に伝わる文書は、御花束御用・本願寺関係と猪上家自体に関する記録類に大別できる。まず、西本願寺への御花束調進関係では御用覚と題する帳面が宝暦11年から明治19年まで25冊、同種のものである「日記」には文禄元年から宝暦10年までの調進記録が簡略にまとめられている。その他、御寺内年中諸仏事覚・供物記録(天明4)や年頭菱花覚(天保2〜明治3)3冊なども遺されている。また、山科別院再建時の「御上棟御飾物控」(安永2年10月9日)2冊などもこの類に入れられよう。 次に、猪上家の記録としては西本願寺への勤方や町への出金や近辺で起きた事件を書き留めた「家式録」が7冊(寛政3〜昭和11)あり、地域の歴史を知る上でも興味深い史料である。また、この文書群で最も古い享保14年10月19日の御絵所御表紙所格免状(七郎右衛門宛)や7代目以降の家督相続に関する証文や記録(寛延2〜明治31)、由緒伝来書(天保12)、猪上氏系図なども遺る。その他、丸屋町の絵図(延享元)、町式目(天保14年9月)もこのグループに一括できよう。 ◆Sm106 光林寺文書  光林寺は、綾大宮町に位置する浄土宗の寺院である。まず土地関係としては、明治・大正期の境内地払い下げ書類や堂宇・不動産の取調書、墓地関係書類(絵図を含む)が多くみられる。檀家関係のものとしては、享保13年から大正8年に至るまでの過去帳、文政13年の宗門帳、明治3年の講中による光林寺諸修復金寄進帳がある。その他の文書としては、明治3年に安達岷空を当寺住職として招請した願書や、明治5年の同住職履歴申上書。また、大正2年から同7年の当寺鐘楼門等建築に関する書類がある。 ◆Sm108 中村(茂)家文書  中村家は、井筒屋と号して、現滋賀県東近江市(もと能登川町)で麻布商を営んだ家で、天保年間には烏丸通仏光寺東入上柳町の地に京店を開いた。当家文書はほとんどが中村家の家業に関わるものであるが、当家文書中で最も古い「寺・町・宮諸入用控」(天保11〜同13)は井筒屋ふさ政の記録で、町の様子もうかがえる好史料。中村家の店経営を知りうるものとしては、明治6年の「棚卸勘定簿」などもある。その他、中村家の店拡大に大きな役割を担った中村清右衛の掟書(明治19)、中村清九郎の一代記など家として語り伝えていくべき人物の記録も遺されている。 ◆Sm109 下村三郎氏所蔵文書  下村家に所蔵される文書は断片的でまとまりを欠くが、町代や芝居興業に関する興味深い史料が伝えられる。まず町代に関するものは、9月2日付の上京年寄玄陳・同惣代清兵衛宛安藤右京進書状(年未詳)と、元文2年8月20日付の山内五左衛門宛早川助八朱印状請取証文の2点である。とくに後者は、早川助八が山内清兵衛から町代役を引き継ぐことを内容とするもので、「町代年暦」が記す早川氏の町代就任年と上記文書の発給年が一致しており注目される。また、四条河原の茶屋営業、見世物興行関係の文書も断片的に遺されており、宝暦3年の茶屋営業等についての茶屋惣代の差入証文、また、四条河原での興業演目と演者の人数書などがある。その他、「諸色直下げ商内のべん」「四国八十八箇所図」といった版行物、吉日庵の歌集、また近代の石油会社関係の文書も遺されている。 ◆Sm112 西方寺文書  西方寺は、四条大宮町に位置する浄土宗の寺院である。文書は全て近現代のもので、明治22年の西方寺明細記には、由緒および本尊・堂宇・絵図が記されている。他には、西方寺境内画や昭和54年の四条大宮町防火設備図がある。 ◆Sm114 聖徳寺文書  聖徳寺は、綾大宮町に位置する浄土宗の寺院である。当寺には、天保14年の宗門人別改帳をはじめ、宗門送状3点(嘉永4〜明治6)や、年未詳の寺請証文催促状がある。その他としては、金銭受取証文や聖徳寺近辺の絵図が残存する。 ◆Sm115 福田(光)家文書  福田家は西七条村の旧家で、当家文書はすべて西七条村関係のもので占められている。中でも松尾社旅所の祭礼関係の文書は当家文書の1つの特色となっており、松尾櫟谷大明神御輿奉加帳(宝暦13)、御神事定連印帳(明和5)、松尾櫟谷大明神駕輿丁取締承知連印帳(天保15・嘉永3)などがある。また、西七条村関係のものとしては、御触書承知印形帳(寛政元・文化9・文化11・嘉永7)、諸入用出入勘定覚帳(明和5〜同7)、西七条村東町町内所蔵文書目録9冊などが見られる。その他、京都府触書写6通、地租上納証明書等の証書類も若干遺されている。 ◆Sm116 山田(啓)家文書  山田家は江戸期において代々檜皮屋五兵衛を称し、屋根職を営んだ家である。文書のほとんどは家屋敷の売買・譲渡に関する証文で、享保15年に布屋町に家屋敷を買得した時の3通が最も古く、明治中頃まで断片的に証文が遺されている。商売関係のものとしては、同業者の半右衛門との間で相出入に関して取交された約定証(元治元年3月)があり、これによって京都の屋根職の仲間に「外組」という組があったことが知れる。また町関係では、明治22年に町中共有地を山田五兵衛の名義で登録することの契約証がある。 ◆Sm119 米田(嘉)家文書  米田家は江戸時代以来、代々青果業を営んできた家である。全803点の文書のうち、近世文書は約150点、もっとも古い年紀のものは延享2年のものである。その多くは金銭に関する証文類であるが、それらによると米田家は、七条出屋敷において米屋市右衛門と号し、青果問屋を営む有力な商人であったことが知れる。 『京都市中央卸売市場三十年史』(京都市、昭和32年)によると、この地域には、江戸時代、青果問屋が4軒あったものの、明治15年になると、米田家1軒のみとなったという。こうした米田家の立場を反映してか、当家所蔵文書の大部分を占める近代文書は、やはりその多くは金銭関係証文等によって占められているものの、明治20年代から30年代にかけて設立された組合の約定書など、青果組合関係文書もあり、それらは近代流通史をみるうえで貴重なものとなろう。